アブラヤ会「石川勝憲先生を偲ぶ会」

2019年12月 1日

    20191130日、大阪市北区にあるリーガロイヤルホテル大阪で、「アブラヤ会特別例会 石川勝憲先生を偲ぶ会」があった。

午後5時、司会・受付係が集まり準備をした。アブラヤ会は、阪大2内脂質研出身者の会で、天下を取ることを目的に結成され、現在会員は138名いる。アブラヤ会の名称は、司馬遼太郎原作「国盗り物語」に出てくる "一介のアブラ売りから美濃国を盗った斎藤道三"に由来する。

石川勝憲先生の奥さんとお嬢さん2人が、遺影・勲章・賞状など持って来られ、マイクの横の"ご遺影置き"にセットしてもらった。各テーブルには、石川先生が元気だったころのアブラヤ会の写真 表示(最前列左から3人目)と、1982724日兵庫県日生(ひなせ)に海水浴一泊旅行に行った時の写真 表示(最後列中央)を置いた。石川先生の娘さん達は、私が日生でYMCAを歌ったことを、よく覚えられておられた。

午後6時、松澤佑次アブラヤ会会長は「石川勝憲先生は、日本で最初に肥満外来を始められた。石川先生は肥満の症例を数多く集められ、きちんと整理されていた。特に、視床下部性肥満は、日本一多く持たれていた。石川先生は野球部で、体育会系だった。酒好きで、脂質研の抄読会の後は、毎週脂質研究室で酒を飲みながら議論していた。学会に行っても毎晩酒を飲みながら、話をしていた。石川先生は教育熱心で、国立呉病院長になられてから、多くの研修医が研究室に帰局してきてくれた」と開会挨拶をされた。

私は「石川勝憲先生は肥満臨床のパイオニアで、日本一の肥満臨床研究者だった。石川先生は学会重視で、私も10近い学会に加入し、毎月のように学会に行っていた。演題締め切りの数日前に"抄録を書くよう"よく指示されたが、阪大の肥満外来は日本一症例数が多く、整理されていたので数日あればまとめることができた。

石川先生は『学会は顔を売りに行くところだ』と言われ、1つの学会で10回以上質問されていた。石川先生は『学会長を取る』と言われ、ロビー活動に励まれ、日本肥満学会と日本動脈硬化学会の学会長を取ることができた。

石川先生は、酒豪で豪快な人だった。197897日、大阪北浜にある高級料亭"花外楼"で"垂井教授就任祝賀会"があった時、『今日は、無礼講で行きましょうや!無礼講で!』と言われ、阪大2前教授を軽々と持ち上げられて"お姫様だっこ"をされた」と挨拶した。

下村伊一郎阪大教授は、「大学院を卒業したら、田辺(和歌山県田辺市)に帰って開業するつもりだった。滋賀で日本肥満学会があった時、シンポジストをして壇上から降りると、石川勝憲先生に『今日は、よかった』と誉めてもらった。夜、石川先生と松澤先生と居酒屋に行き、大学に残ることにした。Obesityを検索するとOsaka Universityが世界で最も多くなっている。大阪大学の肥満論文は世界一になっている。これも、石川先生が肥満外来を始められたお陰だ」と締めくくられた。

石川夫人は「今日は主人の為に温かい会を開いて頂き、本当に有り難うございました」と、とても感謝されていた。日本で最初に肥満外来を創設され、エネルギーの塊のようだった石川勝憲先生 表示(メタボ教室第726段「石川軍団」)が亡くなられた。人の一生に、不変のものはない。

徳永勝人 医師
(とくなが かつと)
医学博士


1968年
広島県立庄原格致高校卒業
1974年
大阪大学医学部卒業

内臓脂肪型肥満、
標準体重=身長X身長X22
を提唱する肥満の
第一人者として活動中。

1983年-1985年
南カリファルニア大学
研究員
大阪大学第2内科講師
市立伊丹病院内科部長
大阪大学臨床助教授
兵庫医大実習教授
を経て
高槻社会保険健康管理センター
センター長として勤務

日本肥満学会肥満症診断
基準検討委員会委員
日本糖尿病学会評議員
日本動脈硬化学会評議員

NHK「きょうの健康」での
講師を務める。
著書に
  「肥満Q&A
  「食事で防ぐ肥満症」
 
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